【アラベスク】メニューへ戻る 第19章【朝靄の欠片】目次へ 各章の簡単なあらすじへ 登場人物紹介の表示(別窓)

前のお話へ戻る 次のお話へ進む







【アラベスク】  第19章 朝靄の欠片



第2節 再びボロアパート [14]




 恋という言葉に妙な小っ恥ずかしさを感じ、瑠駆真は口を尖らせた。
「ご忠告、ありがとうございます。でも僕はそんなヘマはしません」
「ご自分が唐渓の生徒である事をお忘れなく。どうも、あなたや美鶴様や、それに金本様などはその点をあまり自覚されてはいないようなので」
 それは、金持ちで上流階級の人間なのだという自覚だろうか。だとしたらそんなものを瑠駆真や美鶴に求めるのは無理だ。そもそもそんな立場の人間などではないのだから。
 思わず苦笑する。
「何かおもしろい事でも?」
「いえ、自覚と言われても、無理かな、と」
「無理?」
「そもそも、僕や美鶴は唐渓に通う他の生徒たちとは違う。どちらかと言うと、彼らが卑下するような、いわゆる庶民って奴だし」
「美鶴様はどうやらそのような方のようですね。しかし唐渓に通っていらっしゃる事には間違いない。それに、美鶴様は違っても、あなたはそれなりに立場や家柄をお持ちなのでしょう? 唐渓に通っていらっしゃるのだから」
「僕は」
 精悍(せいかん)な中東男性を思い浮かべる。
「僕は違います」
 追い払うように語気を強める。
「僕は親の立場や財力を利用して生きているような人間じゃありません」
「そのような言い方をなさるものではありません。唐渓の学生だって、別に利用しているワケではない。ただ一般の方々よりも少々強く影響を受けて生活をしているというだけの事であって」
「僕は誰の影響も受けてはいない」
「ご両親から何も受けずに生きている人間などいませんよ」
「僕には親はいない」
 吐き捨てるような言葉に、木崎は目を見開いた。
「まさか。ご両親がおられないのに唐渓へなど通えるはずが」
「でもいないんだ」
 そうだ、僕には親はいない。
 母は死んだ。母親だとも思いたくもない女性は死んだ。父はいない。あんな男、ただの他人だ。
「ひょっとして、ご両親とは離れてお暮らしとか?」
「母は死にました。父はいません」
 簡潔に無感情に答える相手に木崎はしばらく口を閉ざす。
「これは、余計な事を聞いてしまいました」
「気にしないでください。気を使われる方が困ります」
 庭から差し込む木漏れ陽が、床に波を(えが)く。
「では、ずっとお一人で?」
「そうではありませんが」
「御親戚の方々でもいらっしゃるのですね」
「それも違います」
「そう、ですか」
 あれこれと詮索されるのも不愉快だが、気を使われて言葉を選ぶような態度もなんとなく腹が立った。それ以上は何も聞いてこない木崎の態度が逆に不快で、瑠駆真はまるで何でもないとでも言うかのような態度で口を開く。
「母が死んだのは中学の時です。母は九州の出なので墓はそちらにあります。あまりに遠くて墓参りなどには行っていられません。正直、母が死んだなんて事実すら忘れていたくらいです」
 そうだ、忘れていた。いや、忘れてしまいたい。あんな口煩(くちうるさ)い母親など。
「だから本当に気にしないでください」
 そうだ、気にする事はない。僕はこれっぽっちも気になどしてはいないのだ。だからそうやって哀れむような目で僕を見るのはやめろ。
 まるで母親の存在を消してしまおうとしているかのような相手の態度に、木崎は困惑した。
「九州、ですか。それは確かに遠いですね」
「遠い上に、場所も山奥です。とても気軽に出かけられるようなところではありません」
「山奥、ですか」
「高千穂というところですよ。ご存じですか? 知らないでしょう?」
 鼻で笑うような瑠駆真の言葉に、だが木崎は目を見開いた。まるで電流に身体が弾けたかのよう。
「高千穂」
 ぼんやりと呟くような声は小さく、その瞳は虚ろ。まるで、目の前の瑠駆真ではなく、もっと別の、遥か遠くの昔の誰かに尋ねているかのようだ。
 その様子に、瑠駆真の熱が一気に冷めた。母を思い出して不快な怒りに包まれていた全身は、木崎の一言でスッと元に戻ってしまった。
 逆に戸惑いがうまれた。
「木崎さん?」
 問いかけに、木崎はハッと瑠駆真を見る。
「あ、あぁ、すみません」
 取り繕うように笑って見せる。だがその表情は、いまだどことなく呆けてもいる。
「あの、高千穂が、何か?」
「あぁ、いいえ、何でもありませんよ。山脇様のような方には」
 そこで木崎は口を押さえた。
 山脇。
 軽く唾をのみ、バカだとは思いながらもそっと口を開く。
「あの、山脇様」
「はい?」
「つかぬ事をお伺いしますが」
 見るからにつかぬ事ではなさそうな口調。瑠駆真は思わず居ずまいを正してしまう。
「何ですか?」
「まさかとは思いますが、山脇様のご親戚かお知り合いに、山脇早苗(さなえ)様とおっしゃる方はおられませんかな?」
「山脇早苗?」
「はい。あ、今はご結婚されているから紫垣(しがき)早苗様とおっしゃいます。あぁ、いえ、実はちょっとした知り合いでございまして。でも長くお会いはしておりませんでしたので記憶も朧げなのですが、その方は確か高千穂のご出身だとお伺いした事がございまして。山脇様と同じご苗字ですし、高千穂はそれほど人口の多くはない集落のようなものだとも聞いた事がございます。ですから、ひょっとしたらと思いまして」
 そうして、突然恥ずかしそうに額を掻く。
「いや、本当に変な事をお伺いしてしまいました。小さいとは申しましても、町や村全体の人々をすべて把握できるワケもございませんよね。ましてや山脇様は高千穂にお住まいになっていらっしゃるワケでもありませんし。その紫垣早苗様とおっしゃる方も、私の存じている方はご高齢になりますので、まさか山脇様のようなお若い方がご存じのはずもないとは思うのですが、まさか、ひょっとしたらと浅はかな考えが浮かんでしまったものですから」
「浅はかなんて思いませんよ」
 瑠駆真は、円らな瞳をそれこそ丸く丸く広げて、見開いて、パチパチと二度ほど瞬きをしてから息を吸った。
「紫垣って苗字は知りませんけど、山脇早苗って名前なら、聞いた事はあります」
 だってそれは。
「それは、たぶん、僕の祖母です」
「え?」
 木崎は思わず立ち上がった。拍子にティーカップに添えられていたスプーンを落とした。カーペットの敷かれた床の上では大した音はしなかったが、別の激しい音に二人は身を震わせた。木崎は腰を浮かせたまま、瑠駆真はソファーに座ったままそちらを振り仰ぐ。
「旦那様っ」
 半開きになった扉の向こうから、少し慌てたような男性の声。だが、声と共に駆け寄る男性の声などまったく耳には入っていないかのように、倒した杖の転がる音になどまったく気付いてはいないかのように、霞流栄一郎(えいいちろう)は扉のノブを支えにしてこちらに乗り出し、目を見開いて室内を、瑠駆真を凝視していた。





 美鶴は思いっきり身体を伸ばした。身体が凝っていた事を実感する。
 学校を、休んでしまった。
 陽当たりの悪い部屋はあまり明るくはなく、窓から少し離れるだけで昼間でも電灯の明かりが欲しくなる。午前中、男性の怒鳴り声がした。決して健全とはいえない環境。そんな場所の一室で、美鶴は昨夜から一人で過ごしている。








あなたが現在お読みになっているのは、第19章【朝靄の欠片】第2節【再びボロアパート】です。
前のお話へ戻る 次のお話へ進む

【アラベスク】メニューへ戻る 第19章【朝靄の欠片】目次へ 各章の簡単なあらすじへ 登場人物紹介の表示(別窓)